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道標 津島湊

道標 津島湊
区分 未指定
種別 道標
材質・形状 木製高札型
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道標 津島湊
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天王川の上流は、萩原川・渕高川と呼ばれ、約500年前、この辺りは300mほどの広さの川幅でした。津島神社参詣の人々のために、天王橋(幅三間、長さ七十二間)が架けられ、その両岸には数千軒の町家が並び、数千艘の出船入船で活気を呈した。津島湊はこの一帯で、広さ約5~6ヘクタールに及ぶ当地方随一の湊町・門前町として頗る繁昌した。商都津島を支配した勝幡城の織田家は、信定・信秀と次第に勢力を広め、信長は天下布武をとなえ天下統一の基礎を築いた。信長は天王橋から津島天王祭を見物した。また、江戸時代になると、尾張藩の代々の殿様も見物に訪れて、大変な賑わいであったという。天王川は天明5年(1785)に水害防止のためここで締め切られ、埋立地に町ができた。

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